仮説とは何であろうか

渡辺久義(2005年10月25日付け世界日報「Viewpoint」より)

 仮説とは何であろうか。仮説とは、あることが真理である可能性が大きいことを予想して学者が仮に立てる説のことであるが、日常生活でも我々はこれを、生きていく上の余裕として知恵として、無意識に用いている。時間や経験を経て、仮説が真理に昇格することもあればしないこともある。たやすく断定できぬ ことについて、真理か否かを断定した上で生きていくのは得策ではないであろう。あの世があるかないかは全く分からないが、あるという仮説を立てて生きた方が賢明であろう。この宇宙にデザインや目的があるはずがない、あってはならないと決め付けて学問研究を進めるよりも、あるかもしれないという仮説を立てて探究する方が賢明であろう。

 アメリカのインテリジェント・デザイン論者と反対派ダーウィニストの攻防をつぶさに見ていれば、反対派にこの余裕が全くないということが誰にも見て取れるはずである。反対派には申し訳ないが、その狭量 と狼狽ぶりは見苦しいと言うほかない。ID派はダーウィニズム一辺倒でなく、ダーウィニズムと平行して、ID理論の可能性もあるということを考えまた考えさせる場を作ってくれ、と言っているのである。真理として認めよというのでなく、仮説として議論の場に上程させてくれ、と言っているのである。ところがダーウィン派は、仮説としてさえ認めることはできないと言う。

 最近のニュースによると、IDを公立校で教えるのを違法の宗教教育だとする提訴を受けたペンシルヴェニア州のある裁判所に対し、八十五人の科学者が、学問の自由を保障するよう意見書を提出し、その文言に「それがいかなる結論に導こうと、科学者の証拠を追究する自由は保障されなければならない」とあるという。つまり、科学者の自由な探究の結果 が、超越的デザイナーの存在証明へ導くなら、これを禁止すべきだとするID反対派に対して、釘を刺したものである。
 こういう唖然とするようなことが、どうして起こるのであろうか。今回のIDをめぐる論争から見えてくるのは、間違いなく無神論が一つの宗教だということである。自分たちの宗教の危機を回避するためには、なりふりをかまわず戦わなければならないのであろう。これに対してID派の方が、過剰なほど譲歩する余裕があるのはなぜか。

 これは人格や知能の違いに由来するものではない。この論争の構造上の違いからくるのである。言ってみればこの論争は、二次元と三次元の争いのようなものである。ダーウィニズムが二次元とすれば、IDは三次元である。三次元世界は二次元世界を含むことができるが、逆は不可である。ID理論はダーウィニズムを、一応は敵として位 置づけながら、これを自分自身の中に含むことができる。言い換えれば、ID理論はダーウィン理論を、いわばダーウィニスト以上に知っている立場であるが、ダーウィニズムは、自分の世界の安泰を脅かすものは排除しなければ成り立たない。二次元の上に追加の一次元を仮定するだけで成り立たなくなるのである。

 超越的デザイナーという仮説を要求するのは生物学だけでない。そもそも時空的に始まりをもつこの宇宙そのものがそれを要求する。宇宙は自分で自分を作ることはできない。それだけではない。ID理論の重要な文献の一つである『特権的惑星』(Gonzalez & Richards, The Privileged Planet)という本は、我々の地球が、太陽系のレベルにおいて、銀河系のレベルにおいて、その配置、大きさ、組成、年齢等、あらゆる条件とパラメーターの奇跡的に微調整されたネットワークによって、この圧倒的に生命を拒否する宇宙空間の中で、ただ一つ生命と観測(と自己発見)の可能な場所になっていることを、圧倒的な証拠を挙げて論証する。

 私はこの本を結ぶSETI(地球外知性探査計画)に関連した、皮肉とも深い洞察とも言える、含蓄ある文章を引用する誘惑を抑えることができない――

 映画『コンタクト』に出てくるような地球外知性からの信号を、現実には我々は受け取ったことはない。にもかかわらず、この小さなオアシスの彼方の天空を見つめるとき、我々が見つめているのは意味のない深淵ではなくて、我々の発見能力に合わせられた驚くべき劇場である。おそらく我々は、素数の数列(『コンタクト』に出てくるETからの信号)よりもはるかに意味のある宇宙の信号を、見落としていたのである。それは一つの宇宙を開示する信号であるが、それがあまりにも巧妙に生命と発見のために細工されているので、我々が好んで期待し想像してきたいかなる知性とも比較を絶して、はるかに広大で、はるかに古く、はるかに荘厳な、地球外知性の存在を囁きかけてくるように思えるのである。

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