Signature in the Cell『細胞の中の署名』に対するDarrel Falkの書評への反論


By Stephen C. Meyer

訳者注:

周知のように、600ページにもおよぶスティーヴン・マイヤーの大著『細胞の中の署名』は、2009年のタイムズ文芸付録「ブックス・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるなど、IDにとって一時代を画するものであったが、ダーウィニストによる書評へのこのマイヤーの反論は、この本の手ごろな要約でもあり、反対者の難癖もほぼわかるので、ここに訳出することにした。

1985年私は、生命起源という生物学の魅惑的な問題――最初の生きた細胞を作り出すのに必要な情報がどのようにして生じたかという問題――に私が興味をもつようになったある学会に出席した。当時私は地球物理学者として、情報解析や技術の一形態であるディジタル信号処理の仕事に携わっていた。一年後、私はケンブリッジ大学大学院に入学し、生命起源生物学の科学的・方法論的問題に関する学際的研究を終え、最終的には科学哲学の博士号を取得した。続く数年間、私は生命起源問題の研究を続行し、生物起源という題目について、いくつかの査読付きかつ審査編集された学術論文を書くとともに、査読された生物学教科書を共著で書いた。(注:これを強調するのは、ピアレビューされた論文をマイヤーは書いていないと言う反対派に念を押すためである。)昨年私は、20年以上におよぶこの問題の研究の集大成としてSignature in the Cellを出版したが、これは生物学的情報の起源と関連する生命起源問題についての、主要な競合する諸説を広範囲にわたって論評したものである。その完成以来、この本は、米科学アカデミー会員のPhilip Skell、ニューヨーク州立大学の進化生物学者Scott Turner、英国の主導的遺伝学者Norman Nevin教授など、著名な科学者から高い評価をいただいている。

にもかかわらず、ウェブサイトBioLogosでの最近の書評でダレル・フォーク教授は、私のことを、単なる善意ではあるが究極的には学者の資格のない哲学者・宗教信者にすぎず、生命起源の研究を評価するだけの科学的専門知識もなく、いずれにせよ、最近の前生命シミュレーション実験の明るい見通 しを見落としている、と批判している。2つのそのような実験を根拠にして、フォーク教授は、前生命化学は生命の起源を説明できないと私が結論したのは時期尚早であると言っている。しかし彼の引証する科学的実験はいずれも、私の本の議論を論駁する証拠にはならず、またこの本が問いかけている核心的謎を解くものでもない。実際、この2つの実験はともに、『細胞の中の署名』の中心的主張を事実上――それとは気付いていないかもしれないが――補強するものとなっている。
私の本の中心的論点は、インテリジェント・デザイン、つまり心をもち合理的な、意図をもって働く作用者の活動が、最初の生きた細胞を生みだすのに必要な情報の起源を最もうまく説明するということである。私がそういう主張をするのは、我々の斉一的な繰り返された経験から我々が知っており、過去についてのすべての科学的推論の基礎となっていると(ダーウィンに従って)私が判断する2つのことが根拠になっている。1つは、知的作用者(intelligent agents)は、大量の機能的に特定された(特にディジタル形式の)情報を生みだす能力をもつことを、現実に示してきた。2つには、いかなる導かれない(undirected)化学的過程もこの能力を示したことはない。したがってインテリジェント・デザインこそが、より単純な、生命をもたない化学物質から最初の生命を生みだすのに必要な情報の起源の、最上の――最も因果 的に適切な――説明を提供する。言い換えれば、インテリジェント・デザインが、問題となる肝心の結果 を生みだす原因として引き出しうる唯一の説明である。

彼の書評のどこを見ても、フォークはこの主張を論駁しておらず、生物学的情報の起源の他のいかなる説明をも提供していない。そうするためにはフォークは、何らかの導かれない物的原因が、デザインする心の導きや活動から離れて、機能する生物学的情報を生みだす能力を示したことがあるということを論証しなければならないだろう。フォークも、他のどんな生命起源生物学の研究者も、それに成功したことはない。そこでフォークはそうする代わりに、私の本に対して主として人身的・手続き的攻撃をすることを選んで、私に学者の資格がなく、導かれない化学的プロセスで十分説明できるという考えについて、どんな否定的な結論を引き出すことも「時期尚早」(premature)だと主張するのである。

私が判断を急ぎすぎるという彼の主張を裏付けるために、フォークは最初に、昨年春、私の本が印刷に入ってから後に発表されたある科学的研究を引証する。この論文はマンチェスター大学の化学者John Sutherlandと二人の同僚によるもので、最初の生命の起源について現在最も人気のある「RNAワールド」説に関連する多くの顕著な困難の1つを、特別 に取り上げたものである。

サザーランドは、ある3炭糖(D‐グリセルアルデヒド)と2‐アミノオクサゾールと呼ばれる別 の分子から始め、1つの塩基と1つのリン酸塩グループに結合する5炭糖の合成に成功した。言い換えれば、彼は1つのリボヌクレオチドを作り出したということである。科学新聞がこれを、前生命化学における一つの突破口として報道したのは正当である。なぜならこれまで化学者たちは、(私の本でも注意したように)リボースと塩基が合成されうる条件は、厳しく両立できないものと考えていたからである。

にもかかわらず、サザーランドのこの仕事は、私の本の中心論点を反駁するものでもなく、また知的作用者のみが機能する特定された情報を生みだす能力をもつという結論を、時期尚早とする主張を、裏付けることにもならない。どちらかといえば、それはその逆の例証になっている。

拙著14章で、私は「RNAワールド」というシナリオを説明し批判を加えている。私はそこで、この説に連関する5つの大きな問題点を説明している。サザーランドの仕事は、これらの困難の最初の、そして最も厳しくないものにもっぱら取り組んでいるだけである。すなわちそれは、もっともらしい前生命条件の中で、構成要素の組み立てブロックあるいはモノマーを作り出す問題である。それは、核酸(DNAあるいはRNA)の塩基がどのようにして特定の情報を豊かにもつ配列を獲得したかを説明する、より厳しい問題に取り組むものではない。言い換えれば、サザーランドの実験は、遺伝子テキストの「文字」の起源の説明には役立つが、機能をもつ「単語」や「センテンス」へのそれらの特定的配列を説明するものではない。

とは言っても、サザーランドの仕事は、前生命条件のもっともらしさを欠いており、それも私の論点を現実に証拠立てる3つの点においてである。

第1にサザーランドは、彼の化学変化の連続を始動させるのに必要な、3炭糖の右利きのイソマー(異性体)のみを使って反応を起こさせることを選んだ。なぜか? それはそうしなければ、見込まれる結果 に、生物学的に意味のあるものがほとんど現れないことを、彼が知っていたからである。もしサザーランドが、はるかにもっとありそうな、右利き・左利き両方の糖イソマーのラセミ混合物を選んでいたなら、彼の化学変化は、ステレオイソマー(立体異性体)の好ましくない混合物――続いて起こるどんな生物学的に有意味なポリメライゼーション(重合)をも深刻に混乱させるであろう混合物――を作り出していただろう。だから彼自身が片方だけの対掌体、すなわち生命そのものが要求する右利きの糖だけを知的に(意図的に)選ぶことによって、生命起源化学のいわゆるキラリティ問題を解決しているのである。しかし、このような糖の非ラセミ混合物が、どんなもっともらしい前生命的環境であろうと、存在する可能性は全くない。

第2に、サザーランドがリボヌクレオチドを作り出すのに用いた化学変化は、多数の別 々の化学的段階を必要とするものだった。彼の多段階反応連続の中間段階の一つ一つにおいて、サザーランド自身が介入して、不都合な並行産物を取り除くことによって前段階の化学副産物を純化している。そうすることによって彼は、前生命化学者の泣き所であるクロス反応を妨げるような出来事を、彼自身の意志、知力、実験的技術によって防いでいるのである。

第3に、目当ての化学産物であるリボヌクレオチドを作り出すために、サザーランドは非常に厳密な「レシピ」あるいは手順に従った。それは彼がどの副産物をいつ除去するかを正確に選んだように、注意深く反応物を選び、それらが反応連鎖の中に導入される順序を、振付師のように厳密に仕組んでいることである。このようなレシピとそれに従う化学者の行動は、ハンガリーの物理化学者マイケル・ポランニーが「深刻に情報的な介入」と呼んだものである。化学者自身の意図をもつ行動――インテリジェント・デザイン――の結果 として、情報が化学システムに付加されているのである。

要するにサザーランドの実験は、ヌクレオチド塩基を機能的に特定された配列に並ばせるという、より根本的な問題には及んでいないのみならず、それが生命にわずかに近い化学構成要素を作り出すのに成功したその範囲内でさえ、実は、そのような化学反応を起こさせるのにインテリジェンスが不可欠だということを証明しているのである。

フォークが私の本を論駁するのに引証している2番目の実験は、この同じ問題をもっと鋭く例証するものである。この実験はTracy Lincoln とGerald Joyceが、ある科学論文で報告しているもので、あたかもRNAの自己複製能力が確認されたかのように言っており、それによってRNAワールド仮説における肝要なステップの1つが、もっともらしいものになっている。フォークは間違って、私が私の本でこの実験を論じていないかのように言っているが、実は537ページで私はそれを論じている。

いずれにせよ、この論文から全く間違った結論を引き出しているのはフォークの方である。生命起源研究者たちに突きつけられた中心問題は、前生命組み立てブロックの合成(サザーランドの仕事はこれに取り組んでいる)でもなければ、自己複製するRNA分子の合成(ジョイスとトレーシーの仕事はそのもっともらしさを確立しようとするが、失敗している)でさえない。そうではなく、根本的な問題は、化学構成ブロックを大きな、情報を担う分子(DNAまたはRNA)へと自力で配列させることである。『細胞の中の署名』で私が示しているように、これまでに実証された極端に限定されたRNAの自己複製能力でさえ、ヌクレオチド塩基の配列の特定性――つまり配列に特定的なあらかじめ存在する情報――に決定的に依存しているのである。

フォークが褒めたたえて紹介しているリンカンとジョイスの実験は、この問題を解決するものではない。少なくともリンカンとジョイスのインテリジェンスを離れては解決できない。何よりまず、彼らが作る「自己複製する」RNA分子には、ポリメラーゼ機械が現実の細胞の中でやるように、自由に使える化学的サブユニットから遺伝情報のテンプレートをコピーする能力はない。それと違って、リンカンとジョイスの実験では、あらかじめ合成され特定的に配列されたRNAが、たった1つの化学ボンドを形成する触媒作用をするにすぎず、そのようにして2つの他のあらかじめ合成されている部分的RNA鎖を結合するだけである。言い換えると、彼らが「自己複製」と言っているのは、2つの特定配列された、前もって作られた半分同士をくっつけるということでしかない。もっと意味深いのは、リンカンとジョイス自身が、これらのRNA鎖のマッチングさせる塩基配列を知的に(意図的に)アレンジしたことである。彼らが複製の仕事をしたのである。この限定された複製の形でさえ、それを可能にする機能的に特定の情報を作り出したのは、彼らである。

このリンカンとジョイスの実験は、私が『細胞の中の署名』で主張している関連する3点を、現実に確認するものである。第1にそれは、RNAの控え目な部分的自己複製能力ですら、これらの分子の特定配列された(すなわち情報に富む)塩基配列に依存していることを実証している。第2にそれは、RNA分子の遺伝情報の部分的複製能力でさえ、化学者の活動から来ている、すなわちこれらの(部分的)RNAレプリケーターの特性をデザインし選択する「リボザイム・エンジニア」の知性から来ていることを示すものである。第3に、前生命シミュレーション実験そのものが、我々が通 常の経験から知っていること、すなわち、知的デザインのみが機能的に特定された情報の生じてくる知られた源泉であることを、確認するものである。

ほぼ60年の間、生命起源の研究者たちは、前生命シミュレーション実験を用いて、生命がより単純な、生命をもたない化学物質から生じてきたかもしれない筋道を示し、それによって化学進化という理論を実証しようとしてきた。これらの実験は時に興味ある洞察を示すことがあり、ある条件のもとである化学反応が起こり、より大きな生命巨大分子を構成するさまざまな小分子を、作り出したとか出さなかったといった話題を提供してはきたが、それは、これらより大きな巨大分子(特にDNAやRNA)のもつ情報が、どのようにして生じたかに光を与えたことはない。そしてこれは、DNAやRNAの化学構造について長く知られてきたことから考えれば、驚くようなことではない。『細胞の中の署名』で私が示したように、DNAやRNAの化学構造が情報を蓄えるようにできているのは、まさにそれらのより小さい分子サブユニットの間の化学的親和力が、DNAやRNA分子の中の塩基の特定の並び方を、決定しないからである。そのありようは、同じ種類の化学ボンド(N‐グリコシド・ボンド)が、骨格と4塩基の一つひとつの間に形成され、塩基のどの1つを、骨格に沿ったどの場所にでもくっつけることができ、従って無限種の異なった配列を作ることが可能なのである。この化学的不確定性によってこそ、DNAやRNAが情報担架体として機能できるのである。それはまた、これらの分子の担う情報――塩基の厳密な配列――の起源を、決定論的な化学的相互作用の産物として説明しようとする試みを、まったく絶望的なものにする。

にもかかわらずフォーク教授にとっては、純粋に導かれない化学プロセスからインテリジェント・デザインを導き出す可能性について否定的な結論を出すことは、本質的に時期尚早なのである。実際彼にとっては、そんなふうに考えるのは科学を諦めること、あるいは「無知からする議論」ということになるのである。しかしこれは、科学と、私が述べているデザイン理論の基本を、共にまったく誤解していることの表れである。

科学研究は、自然がどんなことをするかを教えてくれるだけではない。それはまたしばしば、自然がどんなことをしないかを教えてくれる。例えば、熱力学の保存則はある結果 を禁止する。その第1法則は、エネルギーは決して創りだされも壊されもしないと教える。第2法則は、閉ざされた系のエントロピーは時間とともに決して減少しないと教える。しかも、これらの法則は我々の斉一的な繰り返された経験に基づいているから、我々はそれらに大きな自信をもっている。これが例えば、物理学者が、永久運動機械を研究したり助成したりする価値があると考えなくなった理由である。

同じように現在我々は、特定された、または機能をもつ情報(特にディジタル形式にコード化された)と私が呼ぶものは、純粋に物理的または化学的な先行物からは生じないことを示す豊富な経験をもつに至った。実際、フォーク教授が私に注目するように言っているリボザイム・エンジニアリングや前生命シミュレーション実験は、実はこうした一般 原則を経験的に更にサポートするものである。他方我々は、機能的に特定された情報を生みだす力をもっていることを示す原因――原因と言えるもの――を確実に知っている。それはインテリジェンス、すなわち意識をもつ合理的な意図性(deliberation)である。情報理論のパイオニアHenry Quastlerは、かつて「情報の創造は常に意識ある活動と連合している」と言った。そしてもちろん彼は正しかった。我々が情報を見出して――それが電波信号によるものであろうと、石碑に彫られたものであろうと、本に書かれたものであろうと、磁気ディスクに刻まれたものであろうと――その出所を求めて遡るときに、いつでも行きつくのは必ず心(mind)であって、単なる物的なプロセスではない。こうしてDNAの骨格に沿って発見された、機能的に特定され、ディジタル方式にコード化された情報は、あるそれ以前のデザインするインテリジェンスの活動の、有無を言わさぬ 明確な証拠を提供する。この結論は我々が知らないことに基づくものではない。それは、我々が世界の因果 の構造についての斉一的な経験から確実に知っていること、特に、何が大量 の特定された情報を生みだす力をもち、何がもたないかについて、我々が知っていることに基づくものである。

フォーク教授がこの知識を知識として認めず、それに基づくデザインの主張をも認めないということは、生命起源の解決を厳密に唯物論的な枠組みの内部に見出そうとする、彼自身のコミットメント(党派的立場)を反映するものである。実際、彼や彼のBioLogosの仲間たちは、方法論的自然主義原理、すなわち科学者や科学研究は、現象のすべての説明を唯物論的なものに限定しなければならない、という立場を取ることを明らかにしている。もちろんそのような知的限定を選ぶことは彼らの勝手である。しかし方法論的自然主義という原理は恣意的な哲学的前提であって、科学的観察そのものによって確立されたり正当化されうる原理ではない。我々他の者たちは、何千年もの人間経験の明らかな証言は別 にしても、長いあいだ前生命シミュレーション実験のパターンを見てきたので、そこから一歩先に進むことに決めたのである。我々は生命の情報豊富な構造の中に、知的な活動を明らかに示すものを見て、それに応じた生きたシステムの研究を始めたのである。もし、フォーク教授の定義に従って、それでは我々は科学者というより哲学者だというなら、そういうことにしておこう。しかし哲学者のわらじが、今しっかり一方の足に穿かれるようになったのではないかと私は見ている。


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