『統一思想要綱』(2000)に「共鳴」という言葉は特に使われてはいなかったと思う。しかし文鮮明師の思想の基本は、むかしから今日まで「共鳴(圏)」「和動」であって、創造論も認識論も芸術論も教育論も倫理論も、すべて「共鳴論」として捉えることができるであろう。例えば、教育の要諦として昔からいわれている「そっ(=口へんに卒)啄同時」(雛と親鳥が同時に卵の殻をつつく)も、芸術鑑賞(感動)も「共鳴」という概念を抜きにして論ずることはできない。
「愛」も「授受作用」も共鳴であろう。しかもこれは科学者も宗教者も共に用いる概念であり、物理学的共鳴と霊的共鳴が「共鳴し合う」という宇宙像がいま求められていると思う。
私はこの話題を進めるにあたって、野田首相が施政方針演説に引用した言葉「意を誠にし心を正す」に言及しようと思う。これは中国の四書の一つ『大学』にある有名な「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」という言葉から取ったものである。『統一思想要綱』には309頁に引かれており、これは三大祝福(人格完成から、家庭完成へ、万物管理=世界平和実現へ)という統一原理に一致するものである。野田氏がどういうコンテクストでこれを言ったか、実は私は知らない。私自身がこの箇所にずっと関心をもっていたために、このひと言だけがニュース報道で耳に飛び込んできたにすぎない。
この8項目のそれぞれ頭が動詞である。後半の「修身、斉家、治国、平天下」は、少なくとも戦前にはよく知られた言葉であった。(「修身」は小学校の教科の一つであった。)最初の「格物、致知」は難しいが、「宇宙の原理を窮めて知識を身につける」と解してよいと思う。これも「かくぶつちち」とgoogleに入れれば出てくるほどだから、よく知られているといってよい。その間に挟まれた「誠意、正心」は特に注目されないようだが、私の解釈では、転換期といわれるこの時代、最も重要なのはこの部分である。
この一連の言葉は、世界平和あるいは世界の正しい管理に至る順序を言ったもので、人がわが身ひとつを管理することもできず、家庭も崩壊しているような有様で、いくら世界の混乱を治めようとしても、効果
がないことを教えたものであるから、「意を誠にし、心を正す」の順序が重要であることがわかる。
「意」と「心」は別と考えられている。「意は心の中におさえてとどめてある心のはたらきをいう」と角川漢和中辞典は説明している。「心」が意識の比較的表面
にあるもので、「心を正す」とは意識的な自己規制や論理的思考を指すものとすれば、「意」はもっと意識の奥にある基本的情動のようなもので、「意を誠にする」とは、人間本来の正しい方向に心のはたらきを向かわせることと考えてよいだろう。「意」は「こころばせ」と訓ずるのがよいとある人に教わった。
この「意」の部分が現在最も問われている。もし「愛」という人間に最も基本的なものを考えるなら、この愛が自己中心的にしか働かないか、他者に向かい世界に向かい究極的には神に向かうかによって、人間は大きく二つに分かれる。我々の文化は、今のところ明らかに無神論(唯物論)文化であって、これは基本的に自己中心的文化とも、傲慢文化とも規定することができる。個人的レベルの傲慢ではない。個人的には他者を愛し謙虚に生きる人がいくらいたとしも、文化そのものがそれは間違いだと言う。それが無神論文化というものである。人々はそのことに気がついていない。我々は我々の生きる文化そのものによって、「意」の部分を捻じ曲げられている。「意」がねじ曲がれば、曲った思想、曲った人間、曲った家庭、曲った国家、曲った世界ができあがる。
どうしてそうなったかと言えば、それは我々の文化が、無神論(唯物論)科学といういびつな科学によって支配されていることから来ている。私は何度でも繰り返しているが、無神論科学者が宣伝するように、科学と宗教が対立するのではない。対立しているのは無神論科学と有神論科学である。実はほんの最近までそれがわからなかった。我々はNOMA(Non-Overlapping
Magisteria)などという(進化論者スティーヴン・J・グールドの言い出した)考え方に騙されて、科学と宗教は“守備範囲”が違うのだから、きっちり分けて相互不干渉でなければならない、といった迷信を共有していた。
この迷蒙に気づかせたのはID(インテリジェント・デザイン)運動と統一思想運動であると言ってよい。これらは歴史の転換期に現れるべくして現れた科学革命運動であって、これまで見えなかったもの、曖昧だった区別
がはっきり見えてきた。聖書(マタイ13:24-43)にある喩えの通
り、若いうちは同じ青草で区別のできなかった毒麦とよい麦が、実りの時期(転換期)には明瞭な区別
が現れ、毒麦は刈り取って焼かれるという事態が、今現実に起こっていると考えてよい。
無神論科学は神を追い出して世界を乗っ取ろうとする。この世界の支配者は俺だと主張する。あるいは宇宙自然界とは基本的に闘って征服すべきものだと考える。その根底にあるのはダーウィニズムであって、宇宙学者レナード・サスキンド(Leonard
Susskind)などは、進化は信じられないかもしれないが、「生物学者は非常に強力な武器である〈自然選択も原理〉というものをもっている」などと言う1。何というおぞましさ! これは、中国のような無神論を国是とする国家が、基本的に武力による世界支配をポリシーとするのと同じ構図である。驚くべきことだが、これが現在の体制派科学の基本的態度である。この態度が「意」の部分を占めたときどうなるか?
その典型を、あの有名な車椅子の宇宙学者スティーヴン・ホーキング(Stephen
Hawking)の新著(共著)The Grand Design に見ることができる。この本は、この宇宙自然界に「デザイン」など働いていないと主張する、ガチガチの機械論の立場を主張する本であるにもかかわらず、「偉大なるデザイン」という題をつけたことがまず正気とも思えず、皮肉としても理解できない。それ自体が奇怪だが、彼は宇宙は無から発生したと言い、重力のようなものが最初にあれば宇宙を形成するのに十分だと言う。またこの本の冒頭で「哲学は死んだ、哲学は科学の発達についていけない」などと愚かなことを言っている。哲学とは思考の前提になっているもののことで、彼の主張そのものが“超”唯物論ともいうべき哲学の上に成り立っている。更には我々の人生は、コンピューターの人生ゲームと本質的な変わりはないとも言っている。
なぜこのような狂った、奇怪な結論が、おそらく世界でも最高級の頭脳から出てくるのだろうか? ホーキングにせよサスキンドにせよ、「心」の部分を、数学を駆使して「正しく」論理的に働かせることによって、彼らの宇宙像を得たのであろう。しかしそれ以前の「意」の部分、つまり情動の部分が、人間としての「誠」(本来のあり方)に背いて捻じ曲げられているのだと考えられる。「意」が狂えば、せっかく神から与えられた数学能力も推理能力も狂った結論をしか出さない。それは人間破壊、世界破壊の方向にしか働かない。これは「〈心〉を正しく働かせるには〈意〉が誠でなければならない」という普遍的な原則に対する“反面
教師”の典型的な例であろう。
我々の生きている宇宙自然界の本質が「共鳴」「和動」といったものであることは、自明だと言ってよい。これは生命というものの本質であるから、宇宙はその根底において生命だと言うこともできる。物質的土台の上に生命要素のようなものが加わって生命世界ができるのではない。
この宇宙自然界に、物力でない「デザイン」の存在を普通
の科学的方法で検出できるのだから、デザイナー(インテリジェンス)を想定せざるを得ないというだけの、ごく単純なIDの主張を頑なに拒否する人々が多いのは、やはりこの「意」の部分が素直でないからである。「素直」などということが科学に関係するか? 大いに関係する。むしろ素直であるかどうかが科学の生死を決める。次に引用するのは、反ID派の「標準的な」ID攻撃の論調として引用されているものである――
ID唱道者たちに対して私が特に腹が立つのは、彼らが決して諦める様子がないことだ。何かが間違っているということを君たちに認めさせるのに、いったい何度言わなければならないのだ。IDが成功の見込みのない運動であることを分からせるのに、君たちは何度ピア・レビュー付きの雑誌で拒否されればいいと言うのだ? バクテリアの鞭毛の「還元不能の複雑性」物語は、完全に、間違いなく死んでいる。それは間違いなのだ。いい加減にせよ2。
もしこの文が翻訳の誇張によるものだと思う人があれば、英文版をご覧になればよい。学者がこんな文章を書くのかと驚きあきれるが、同時にこれは、転換期に二分された人種の一方(毒麦の側)に、どういうことが起こっているのかを研究する資料にもなるであろう(サスキンド、ホーキング、それにここでは引用しないがリチャード・ドーキンズの文章も含めて)。本来は正常であり、良識もIQもすぐれているはずの人たちの間で、何か異常なことが起こっているとしか考えられないだろう。
IDの側は、既成の科学体制に異議を申し立てるのだから、当然、理論武装をしなければならない。普通
の理性のレベルに立つ限り、この理論を論破することは難しいと思われる。(例えばStephen
MeyerのSignature in the CellやMichael BeheのDarwin’s
Black Boxを読んでみるだけでもよい。)しかし、上の攻撃文に現れているように、問題は論理ではない。あたかも何かに取り憑かれた者のように、反対の立場を頭から受け付けず、ひたすらこれを撃退しようとする。
ちょうどイエスの前に出た悪霊たちに恐慌が起きるように、我々の無神論(唯物論)文化体制にわずかにでも批判の目が向けられ始めると、それまで隠されていた傲慢体質と暴力体質が露わになる。理屈は通
じない。彼らは脅しと侮蔑によって相手を黙らせようとするだけである。これは、私のようにID運動を草創期からつぶさに観察してきた者にとって、驚くべき発見であった。いかに我々がいびつな、病める文化体制の中に生きていたかが分かってきたのである。
我々は論理によって生きる前に情意によって生きている。論理は正しいか間違いかの問題だが、情意は健全であるか不健全であるかの問題である。健全な世界解釈と病める世界解釈がある。宇宙自然界に対する、健全な態度と不健全な態度がある。つまり「意」の部分が二つに分かれる。そしてこの二つは全く相容れない。ただ健全な者には不健全な者の立場がよくわかるが、不健全な者には健全な者が、自分たちと科学をともに破壊する破壊者に見える。
宗教者が言う「金持ちと学者は救い難い」ということの意味は、傲慢な者には真理が見えてこない、傲慢は自らを小さな世界に閉じこめる、ということである。今ほど、このことが大声で叫ばれなければならない時代はないだろう。この観点からしても、宗教と科学は嫌も応もなく一致せざるをえない時代に入ったと言える。宗教と科学の知識が一致するのでなく、より本質的には、世界に対する宗教と科学の基本的態度が一致しなければならないのである。そのような観点から、初めて人類の知の進歩ということが可能になる。本当の意味での知識が可能になる。
では世界に対する傲慢を脱ぎ捨てた、謙虚で健全な態度とはどういうものであろうか? 私はこれを、ID唱道者たちが製作したいくつかのDVDの一つMetamorphosis:
the Beauty and Design of Butterflies(変態:蝶の美とデザイン)を例にとって論じようと思う。
これは和名オオカバマダラ(Monarch
butterfly)という驚くべき蝶の生態の物語である。まず、こうした蝶の美しさ自体が驚異であることにこの映画は注目させる。こうした「無償の芸術性」は、「生き残りのため」というダーウィン原理では説明できない。これは、それを鑑賞することのできる人間との関係(共鳴)によってしか説明できない。蝶の美しさは人間のために存在するとしか考えられない。
最初にこの蝶の成長の様子が美しい映像で紹介されるが、周知のように、蝶は青虫がいったん「さなぎ」となり、そこから全く似ても似つかない美しい成虫となって飛び立つ。だから蝶の場合、いわば一つのゲノムが二種類の動物を作るわけで、神秘は倍化する。しかも「さなぎ」の中身はドロドロの「スープ状」であるから、蝶は生涯の半ばでいったん死ぬ
わけである。驚いたことに、この「スープ」はわずか数日で見事な蝶に変身する。こうしたことは恐るべき能力をもった「デザイナー」を想定しなければ考えられないことで、偶然と自然選択などという説明は全く成り立たない。
しかし更に驚くべきことは、オオカバマダラの移動(渡り)であって、この蝶は途中で世代交代をしながら、したがって前年の経験のある一匹の蝶の案内もなしに、毎年、カナダ北部からメキシコまでの旅を正確に繰り返す。しかもメキシコ中部の火山地帯のある特定の場所の同じ木にとまるのである。この驚異的なナビゲーションがどうして可能なのか? 体内に精密な測定器をもっている(例えば、この火山の鉱物の磁気を感ずるらしい)からだとしても、それで説明が済むわけではない。そんなものをどうして獲得したのか?
これは、蝶と自然環境との間の和動あるいは共鳴関係としてしか説明ができない。すなわち蝶と自然環境は別
々のものでなく、ちょうど一匹の蝶自体が有機的調和体であるように、蝶と地球も有機的調和体(一つの生命体)をなしているとしか考えられないであろう。そう考えればこの蝶は特別
のものではない。すべての生物がそうであり、我々と地球環境、我々と他者も、すべて有機的につながった一つの「共鳴圏」であると考えざるをえなくなる。そのようなものとして創られているということである。そこにはデザイナーがいなければならない。これを計画し何らかの意図と目的をもってこれを創った、恐るべき“超知性”が存在しなければならない。
唯物論者は、生命を物理現象の延長としてしか考えないから、固く心を閉ざしてこのような考え方には敵意を示す。これに関して面
白いエピソードが報告されている。このDVD Metamorphosisの試写
会がフロリダのある蝶博物館で行われたとき、集まった観客はほとんど蝶の愛好者ばかりだったので、他の場所とは違った特別
の反応があったという。挨拶に立った人が「インテリジェント・デザイン」という言葉を口にしただけで、観衆から大きな拍手が起こったという。この人たちはIDに「飢えているようだった」と報告者は言っている。また上映が終わっても人は帰らず、「熱気がむせ返るようだった」が、観客の一人がこう言っているのが漏れ聞こえた――「どんな心の固い科学者でも、蝶を見にメキシコへ連れて行ってみるがいい、きっと感動して泣くだろう。」報告者は「これはほぼ間違いないことだ」とコメントしている3。
これこそ、蝶の話から始まった自然界の「和動」「共鳴」という話題の頂点である。心を固く閉ざした(唯物論)科学者が、圧倒的な自然の美しさ・デザインに感動して泣くということ、この人間と自然界との間に起こる「共鳴」こそ、最も尊く重要なもの、これこそ神の計らいによる究極の共鳴であろう。この素直な感動が「意」の部分で起こってこそ「意を誠にする」ことができ、これによって自然界が人間にその秘密を明かすのである。それは芸術鑑賞と何の変わりもない。そしてこれが正しい自然の把握(唯物論の代弁ではない正しい自然科学)を可能にする。
これまで我々は「目的論」という概念になかなか慣れることができなかった。それは我々が徹底的な唯物論科学教育を受けてきたことによる。しかしここ数年来、宇宙の「ファイン・チューニング」という事実が、次第に常識として定着するようになって(そしておそらく、それを避けるためのダーウィン的「多重宇宙論」の愚かしさが明らかになるにつれて)、目的論というものがこれまでのタブー視を免れるようになってきた。宇宙は生命のために、人間のために、時空的に厳密に微調整されている。我々を生かしているこの宇宙は、時空的にそのどこを切っても血が出ると言うことができる。ということはこの宇宙は人間を中心として、時空的にすべての要素が和動する共鳴体だということである。蝶は環境を知っており環境は蝶を知っている。蝶の始め(構想-目的-デザイン-DNA)に完成された蝶がすでに存在し、完成された蝶にはその始めが内在している。
我々が始めと呼ぶものはしばしば終わりであり
終わることは始まることである。
終わりは我々が出発した場所だ。
・・・
我々は探究をやめることはない、
そして我々のすべての探究の終わりは
我々が出発した場所に到達すること、
そして初めてその場所を知ることだ。
――T・S・エリオット『四つの四重奏――リトル・ギディング』4
オオカバマダラと地球が一つの「共鳴圏」を構成しているように、生命の終わりと始まりも一つの「共鳴圏」を構成している。創造されたものは、創造したものを前提としている。創造されたものの中に、創造の動機や意味が含まれている。「我々は(科学的・哲学的)探究をやめることはない。」オオカバマダラの神秘は永遠の探究の対象であり、その謎は少しずつ解かれていくことだろう。しかしその探究の行きつく先は、オオカバマダラの起源であり、オオカバマダラとその神秘に魅せられてこれを探究する我々の共通
の根源=創造者である。我々は旅を続け、我々の起源=「出発した場所」に戻るほかはない。
文先生は、我々の自然界に対する関心の移り変わりに3段階があると説明される。それを「物情」→「人情」→「天情」と表現する5。最初、人間はもっぱら研究対象そのものに対する唯物論的関心しか示さなかった。これが「物情」の時代。次に我々は、そういう対象に関心をもつ我々自身とは何かという心理的、認識論的、精神分析的関心へと移っていった。これが「人情」の時代。しかし現在は、それらすべての「出発した場所」の意識への関心、それらすべての根源である神の心がどうであったかの関心へと移行しつつあることを指摘されている。これが「天情」の段階であり、「インテリジェント・デザイン」などに代表される関心の方向がまさにそれである。
文先生はまた、「進化」という言葉を廃止して「進和」にせよ、「進化」という言葉を使う者は「気が狂っている」と言われている6。宇宙全体がより大きな生命的調和の方向を目指しているのに、これを排除や闘争の原理で説明しようとする者は、確かに「気が狂っている」。フロリダの人々の間に「インテリジェント・デザイン」という言葉を聞いただけで大拍手が起こったのはなぜか? それはこれまで、人々がパンを求めているのに蛇が与えられてきたからである。
『要綱』は創造の本質を「円環性」「円和性」という言葉で説明している。過去と未来が相互に浸透している、未来を先取りしている、というイメージで宇宙を捉えない限り、創造(完成された生物の突然の出現)ということは考えられない。過去に存在する原因に押し出されて新しいものが出現する「進化」でなく、目的へと向かって「性相」と「形状」の一体化を実現する「進和」でなければならない。「性相」と「形状」は互いに相手の要素をもっているからこそ「共鳴」することができる。テレビやラジオの波長が合って(共鳴、同調)突然、画像や音声が現れるように、新しい生物が現れるのでなければならない。
先に引用したエリオットの詩の後の4行が、Metamorphosis
などと一連のID宣伝のDVDの一つ The Privileged Planet(特権的惑星)の冒頭で引用・朗読されている(原本にないもの)。この原本となっているのは、Guillermo
GonzalezとJay Richardsの同名の書であるが、その副題は「いかに宇宙の中の我々の場所が発見のためにデザインされているか」であって、これは我々の地球が、人間が生きるためだけでなく、宇宙観測や科学研究のために、ここしかありえないという絶好の場所になっているという不思議な事実を論証する本である。(なんとゴンザレスは、この本を書いたためにID支持者として大学を追放された!)
例えば、この本の次のようなところに注目していただきたい――
実質的に、星(恒星)はコンピューター上の表象にきわめてよく似ている。ヴァーチュアル(虚像)の星にそれぞれヴァーチュアルの情報タグがついているように、本物の星もそれぞれ、その年齢、質量
、位置、速度などについての情報を含み、それを発信している。転倒した言い方をすれば、天の川銀河はその重力特性を測定しようとする我々の努力に、あまりにも不気味なほどに協力してくれる(weirdly
accommodating) ので、それはちょうど巨大なシミュレーションのようである7。(強調引用者)
この「不気味な協力」は何であろうか? 相手は生物でなく星空という無生物であるにもかかわらず、事実上、知りたいというこちらの意志に向こうが協力してくれているのである。これはオオカバマダラと地球の間の関係と同様、知りたい科学者とそれに応ずる宇宙の間の一つの有機的つながりとしか考えられない。宇宙的な共鳴・和動といった概念でしか捉えることができない。この不思議な感覚は天文学者の間に共有されているらしい。これは宇宙と人間の間に存在する「ファイン・チューニング」であるが、数値によるものでないファイン・チューニングである。
次はこの本に引用されている別の科学者の言葉である――
我々は我々の住んでいる太陽系に感謝してよいと思われる。というのは、その力学を理解し、その知識を宇宙の他の部分に延長しようとする、人間の努力の長い歴史を通
じて、太陽系は理不尽なほどに親切(unreasonably
kind)だったからである。その研究の道のりの一歩ごとに、それ[太陽系]は明察力ある教師の役を演じ、新しい洞察に導く新しい観察と計算を促すために程よく困難だが、混乱した細目の泥沼にはまってそれ以上の研究ができなくなるほどには難しくない、諸問題を我々に与えてきた8。(強調引用者)
太陽が我々の必要とするエネルギーのすべてをまかない、快適な住環境を与えていることは、誰でも知っている。しかしそれだけではない。太陽系は、我々の成長に応じてちょうど手ごろな難しさをもつ問題を与え、「解いてごらん」というように理科教師として我々を導いてきた、ということである。どこまでも宇宙は我々と意志を通
じ合い、共鳴するようにできている、としか考えられないであろう。これこそまさに宇宙規模の「_啄同時」ではないか。これと全く同じようなことが、化学の「周期表」が徐々に完成されていく過程に起こっていることを論じたのが、私たちのグループの翻訳したBenjamin
Wikerと Jonathan Witt の共著A Meaningful World『意味に満ちた宇宙』である。
言い換えれば、我々(科学者)は宇宙自然界と――楽をしてでなく困難を克服しながら少しずつ――対話できるようになっているということであろう。そしてその対話のレベルが向上することがすなわち科学の発達である。唯物論者は、科学の発達を自分の頭のよさ(特に数学能力)や偶然(運のよさ)によるものとしか考えることができない。甚だしい場合は、宇宙は手なづけ、言うことを聞かせるものだと考える。これは意識レベルが「物情」や「人情」の段階にとどまっているからである。そこから成長して、自分のこの研究を可能にしているものはそもそも何かという問題意識に達したとき、「天情」の段階に入る。かつての傲慢の時代が恥ずかしい過去として反省され、謙虚の時代に入る。このときが本当に科学と宗教が一致するときである。科学と宗教の概念そのものが変わり、科学教育が即宗教教育となる。文先生の言われる「脱宗教」の時代である。文先生は「宗教は宗教を卒業するために存在する」と言われる。
The Privileged Planetの著者たちはこう言っている――
たいていの科学者は物理的世界が計測可能なことを当然なこととして、それは科学者がそれを計測する方法を見つけたから計測可能なのだと考えている。科学的発見の歴史のどんな本でも読んでみれば、そこに書いてあるのは、人間の賢さ、辛抱強さ、運のよさについての素晴らしい話ばかりである。おそらくそこに決して見当たらないのは、そのような功績をあげるのに必要な条件についての議論、すなわち科学的発見を可能にするために想像を絶するほどに微調整されていて、これを単なる偶然ではなく、もっと納得のいく説明を要求するような条件についての議論である。
・・・・
我々の(宇宙での)場所がいろいろな測定と発見のために、きわめて適しているという事実以上に神秘的なのは、この同じ条件が生活適合性(habitability)と呼応しているらしいことである。これは不思議なことだ。なぜなら我々の存在を可能にする同じ稀な特性が、我々の周囲の世界について発見するための、全体として最適の舞台装置をも提供するだろうと考えねばならぬ
、明白な理由は何もないからである9。
現代の大多数の科学者がこういう事実に「白を切る」ということは、たとえて言えばこういうことであろう――
大学を卒業しても働く気もなく、ぶらぶらしている男がいた。ところがこの男の銀行口座には毎月、十分以上の金が振り込まれ、外で遊んで帰ってくるといつも部屋は掃除され洗濯もしてある。しかし彼は、そんなことを気にも留めず、それが当たり前だと思っている。あるとき友人が、「誰かが君のためにそれをやってくれているはずだ」と言うが、彼はきょとんとしている。やがてそれが彼の両親であることがわかったが、彼は驚くでも感謝するでもなく、こう言う、「親が子のためにそういうことをするのは自然のことで、それは自然現象にすぎない。自然現象に感謝するなど馬鹿げているではないか。」そこで友人があきれ返り憤ると、かえって彼は友人の科学的無知を嘲笑し軽蔑する。
この喩え話は、現実の科学者共同体のかなり忠実な素描だと私は考えている。おそらく大多数の科学者がこの男の立場を取っている。なぜだろうか? それは唯物論・無神論文化というものが我々の「意」の部分、情動の根源を狂わせ、麻痺させ、科学者にとって感謝とか愛などというものは邪魔なもの、科学は本来冷たいものだと思いこませるからである。これは完全に思い違いである。科学者が感情を排さなければならないのは、科学的論証においてであって、科学的動機付けにおいてではない。科学は感動から始まるのでなければならない。
現代科学者の気づくようになったこの不思議な事実、生きていくだけでなく科学的発見のためにも、なぜこんなに恵まれ、いわばお膳立てされ手引きされているのかという不思議な事実をどう解釈すればよいのか? この宇宙自然界が我々の努力に応ずるかのような関係をどう理解したらよいのか? これは「物情」(モノ中心)や「人情」(人間中心)の科学で解ける問題か? これは間違いなく、文先生の言われる「天情」(神中心)の科学を要する問題である。
これは我々をもっと根本的な問題へと駆り立てる。なぜ我々、少なくとも我々の一部は、これほどに数学的能力に恵まれているのだろうか? 物理学者のユージーン・ウィグナーは「自然科学における数学の理不尽な有効性」ということに我々の注意を向けさせ、アインシュタインは同じような意味合いで、「この宇宙で最も理解できないことはそれが理解できることだ」と言った。その答えは、宇宙と我々の心は「共鳴する」ようにデザインされているということである。
我々は自分の頭がよいのでこんなに科学がよくできる、と考えるべきではない。それは、オオカバマダラは頭がよいのであんなに見事に旅ができる、と考えるのが馬鹿げているのと同じである。オオカバマダラと地球は一つの共鳴体として、ペアとして創られている。そのように我々の思考能力も、宇宙での場所も、すべて神のデザインを読み解くことができるように、共鳴するようにデザインされている、と考えるべきであろう。
これは当たり前のことではない。我々に畏怖の感情を吹きこむべき発見である。人間の傲慢を打ち砕くべき発見である。
宇宙は人間を中心とした一大共鳴圏であると考えざるをえない。上に述べたような人間と宇宙との不思議な関係がなぜ存在するのか、これに答えられるのは統一思想だけのように思われる。すなわち、この宇宙の構想の初めに人間像があり、人間を中心として他のすべてのものが創られたという見方である。だから宇宙の歴史はいわゆる「進化」でなく、人間という目標を徐々に実現していく過程だという考え方である。なぜこの宇宙が、人間を中心に奇跡的な絶妙さでファイン・チューニングされ、人間が奇跡的な「特権的」場所を与えられ(宇宙の他のどこにもこんな場所は発見できないという)、他の動物とは決定的に違う高度な能力を与えられているのかという問題の合理的な解答として、統一思想の人間解釈以外にはあり得ない。
統一思想の認識論は「照合論」(theory
of collation)と呼ばれる。これは宇宙が人間を中心に創られたために、人間はその内部に宇宙のパターンをもつ、宇宙の縮小体だという観点を前提にしている。人間は自分の内部に、外の世界の形式も内容も共に認識できるような潜在的パターンをすでに与えられていて、認識とは外の世界を「照合する」ことであるという。照合とはいわば内外の波長が合うことで、これを「共鳴論」と呼ぶこともできるだろう。高度の科学的発見も、そのような共鳴による認識である。分かり易くいえば、人間の「呼」に対する外界の「応」によって認識は成り立つ。こちらに主体性がある(カントの対象構成的認識論)のでも、向こうに主体性がある(マルクスの反映論)のでもない。これは認識論の歴史にもたらされた革命である。
唯物論者は「祈りが通ずる」などと言えば頭から馬鹿にするだろう。しかしこれを統一思想の認識論から見れば、多少は納得できるはずである。唯物論者よ、どう思う? 君は祈りによって世界を動かすことができる。ただし君がもはや傲慢でなくなったときのことだ。ということは、もはや愚か者でなくなったとき、という意味だ。
共鳴(resonance)は科学の概念でもある。自然界の共鳴についての特に重要な業績は、フレッド・ホイル(Fred
Hoyle)のそれではないだろうか。ホイルは(私の理解に間違いがなければ)、星の内部で核融合が起こって炭素ができるためには、厳密に微調整された核エネルギーの共鳴が存在しなければならないと予言し、これがなければ炭素以降の重い元素は作ることができず、従って炭素を中心とする我々のような生物も存在しなかったと言った。これは後に実験で確認された。彼の次の言葉はよく引用される――
こうした事実を常識的に解釈すれば、ある超知性(super
intellect)が化学や生物学のみならず、物理学をいじった(monkeyed
with physics)ということ、自然界には盲目の力と言えるようなものは何もないことを示唆するものである10。
フレッド・ホイルは「超知性」による物理的次元でのファイン・チューニングを認めたが、大多数の科学者はファイン・チューニングの事実は認めるが「超知性」は認めない。しかし何らかの超知性あるいは「デザイナー」をこの宇宙の、内部か越えた所に想定しないかぎり、物理学は人間の“知”の全体に組み込まれることができず、従って物理学に発展性はないと考えられる。
ホイルが生命体組み立ての基本元素である炭素に「共鳴」という現象を見つけたことは、大きな意味のあることと思われる。なぜなら宇宙そのものが広大な生命現象であり、生命そのものは時間的・空間的な共鳴現象だからである。生命そのものは見えないが、最初から存在したと考えられる。もし小宇宙である人間が一つの有機的全体としてデザインされたものであるとしたら、大宇宙も一つの有機的全体としてデザインされたものということになる。未来から来る原因というものがなければならない。人間の胎児が機械的な原因だけで人間に成長すると考える人があるだろうか? 足が痛がっているのに脳は知らなかった、などということもない。
もしそれが宇宙と人間についての真理だとしたら、我々は遠くの見えない人々の苦痛や喜びを、当然のように感ずることができるはずである。とすれば、倫理は「共鳴」という普遍的な原理に基づく「自然」科学の一領域であるべきである。これに対して唯物論は、反発あるいは拒絶の原理である。もし我々の文化がそのような原理によって(無意識に)支配されているとしたら、不協和が世界を支配し、我々を破滅へ追いやることは火を見るより明らかであろう。
このような運命を防止するためには、まず我々は創られたものであるという認識がなければならない。しかも何かのついでに創られたのでなく、我々を中心にして宇宙万物が呼応するように、また宇宙万物の主人としてこれを正しく管理するように創られた、と解釈しなければならない。コペルニクス以来今日まで、我々はまさにその真逆を教えられてきた。つまり我々は宇宙の無意味な存在、自然的な原因によって生み出された偶然の産物と考えるように教えられてきた。これが我々にエセ謙虚を植え付けることになった。私はこの人間の無価値という幻想をサタンの戦略と呼びたい。我々が必要とするのは本物の謙虚である。実はこのエセ謙虚こそが、それと手を組んだ「傲慢」を養成した張本人である。これはどんなに強調しても足りないことである。
『特権的惑星』は、この我々を誑かす原理を「コペルニクス原理」と呼んでいる――
我々は宇宙の中で例外的な場所を占めているだけではない。我々はまた宇宙歴史の中で、特別
のタイミングの中に置かれている。我々と我々の環境が文字通
り宇宙の物理的中心にあるのではないが、我々は他の、はるかにより深い意味において特別
なのである。ある意味で我々は宇宙の「中心」に、些末な空間的意味においてでなく、生活可能性と計測可能性という点で、居心地よく住み着いている。この事実は、「コペルニクス原理」によって養われた予想とは全く正反対のことを指している11。
我々は意味的に宇宙の中心に置かれ、特権と共に責任を与えられていると考えなければならない。Noblesse
oblige! これはほぼ科学的認識になりかけているではないか。これは畏怖すべきこと、粛然と姿勢を正すべきことではないのか? この事実から目をそらし、人にも目をそらさせようとする科学者の態度は何を意味するか? それは「意を誠にする」という根本を否定することによって世界を破滅に導くことである。
我々を中心にして宇宙が創られるということ、我々がこの宇宙の縮小体であるということは、我々と宇宙が共鳴・和動するということである。この共鳴・和動を原理とする宇宙の正しい認識に立って自分自身を律し、その同じ原理を、家庭、社会・国家へ適用し、世界へ及ぼすのでなければ、正しい自然の把握も、正しい自然の管理もできないのは当然ではないか。
唯物論は自滅の原理である。それに基礎を置くすべての人間活動は世界を破滅に導く。この「毒麦」としての、人々が気づかないでいる文化体制を、我々は一刻も早く脱皮しなければならない。この宇宙の原理は生命的共鳴・和動である。「格物致知誠意正心修身斉家治国平天下」とは、この共鳴・和動の原理が、道徳、倫理、政治、経済、芸術、宗教、科学すべてを貫く原理であることを教えているものと解釈できる。
注
1. Leonard Susskind, The Cosmic Landscape: String
Theory and the Illusion of Intelligent Design (New
York: Little Brown and Company, 2006), p.6.
2. http://evolutionnews.org March 15, 2011,“Michael
Behe Hasn’t Been Refuted on the Flagellum”を見よ。
3. http://evolutionnews.org October 12, 2011,“Metamorphosis
Debuts at Butterfly World, Florida”を見よ。
4. The Complete Poems and Plays of T. S. Eliot (London:
Faber and Faber, 1969), p.197.
5. 2011.10.26 訓読会(清平天正宮)での御言。
6. 2011.10.13 訓読会(清平天正宮)での御言。
7.Guillermo Gonzalez & Jay W. Richards, The
Privileged Planet: How Our Place in the Cosmos Is
Designed for Discovery (Washington, DC.: Regnery
Publishing,2004), p.126.
8. Ibid. (Ivars Petersonの言葉) p.103.
9. Ibid. p.xiii.
10. Denyse O’Leary, By Design or by Chance? P.4に引用。
11. Ibid. p.271.
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